みなさま本日のご機嫌はいかがでしょうか。
ひとつの場所にとどまることなく、帰る故郷もないひとを「根無し草」と表現することがあります。これを「デラシネ」と読むと知った時、かっこいいな、憧れるなと思ったものです。フランス語で「根を抜かれた」の意を持つ分詞であると日本経済新聞誌上で情報技術学系を指導されておられる「ドミニク チェン」氏が解説していました。自らの意志でその根を「抜いた」のではなく、「抜かれた」と考えるのですね。
希望には反して、長く居住すると決めて住み始めた住まいを失いました。ふた親も花が流れる川の向こう岸へ渡ってゆき戻れる家も無い、まさに「デラシネ」になりました。カッコいいなんて呑気なものではありませんでした。大家さんから部屋を借りていく老後です。根無しになりたくてもそれが許されない状況だと嘆く人もいるでしょう。ままならないのが人のこの世です。
デラシネ、ジプシーと連想していてふと「万葉集」の和歌を思い出しました。中学一年時の現代国語を教えてくださった先生のことは今でも鮮明です。ラストネームもしっかり思い出せますし、授業の最後に万葉集の中から一首読み上げられ、語訳もしてくれました。その様子もなぜかよく覚えているのです。
「家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」 有間皇子
さすが高貴なお方の詠まれたのんびりしたお歌です。これを紹介される時その先生は一語また一語と噛み締めるように発音され、また実際にくちびるを噛んでおられたように思うのです。くちびるが赤くなっていました。穏やかで声を荒らげず、わかりやすい授業をしてくださったその女性教諭は3学期まで担当されず、どの季節だったか休職され、以後授業でお会いできませんでした。
ずっとずっと後、あの先生は「蒲柳の質」ではなかったかと勝手に想像しました。色白で細身、そういえば声も小さめで、聞き取るために集中せねばなりませんでした。失礼ながらその後も少女漫画のキャラクターのように、「きっと深窓の令嬢で、本当はお仕事をしなくて良いのに、万葉集の素晴らしさをこどもに教えたいと思っていらしたんだわ。」と。
高校まで公立教育を受け、他にあのような静かで学究肌の先生にはお目にかかりませんでした。授業進行第一、声がバカでかい、男子にやたら人気がある、話がよく脱線するなど、際立つ個性の教諭はいました。
後年今上陛下にお代が代わり年号も改まった時のこと。「令和」の考案者のおひとりとされる、「中西 進」教授のインタヴューを読みました。
見出しに、万葉集はグローバルとあり、読んでいくとその和歌集は何をも排除しない素晴らしさを持っているとおっしゃっています。中西教授ご自身の最も好きな歌を最後に紹介されていました。
「吾が恋は まさかもかなし草枕 多胡の入野の奥もかなしも」(巻十四)
ええっ、もっと華やかなものを言われるかと思えば、驚きましたがこれこそグローバルです。未来もいまも悲しい、と。ここで先述の中学時代に覚えた一首にも出てくる「草枕」、つまり旅が出てきます。この世を去っていくまでの時間はすべて旅とも言えるし、所有する自宅のないデラシネのわたしもずっと「草枕」状態です。
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